LOGIN大会当日、競技場の入口近くで陽菜を見つけた時、俺は最初に「おはよう」と言うつもりだった。
昨日、二人でそういう話をしたからというより、それが一番普通だったからだ。大会だからといって特別な言葉を用意しておく必要はない。むしろ、前回みたいに余計なことを考えすぎるより、その時の陽菜を見て話せばいい。
そう思っていたのに、俺が口を開くより先に、陽菜はスポーツバッグを肩へ掛けたままこっちへ来て、少しだけ困った顔で言った。
「悠真、今日だけは先に好きって言って」
かなり意外だった。
「今?」
「今」
「前回、レース前は嫌だって言ってたけど」
そこまで言ってから、言い方を間違えた気がした。
陽菜も少しだけ眉を上げる。
「それ、今言う?」
「比較したかった
第87話 彼女が走っている数十秒だけ、俺には何もできない スタートの合図が鳴った瞬間、陽菜は俺の知っている夏目陽菜ではなくなった。 もちろん、別人になったわけではない。けれど、さっきまで俺の前で「好きって言って」と頼み、少し怖いと笑い、日焼け止めの匂いを気にしていた彼女と、今トラックを走っている選手が、同じ人間なのにまるで違って見えた。 陽菜は自分のレーンを走っている。 最初のカーブ。前半は飛ばしすぎないと以前聞いたことがある。それでも、観客席から見ている俺には速いとしか分からない。陸上を何年もやっている人間ならフォームやペース配分をもっと細かく見られるのだろうが、俺にはそこまでの知識はなかった。 だから、ただ目で追う。 それしかできない。「行け……」 声が勝手に出た。 聞こえるわけがない。周囲にはもっと大きな声で選手名を叫ぶ人もいるし、トラックそのものが遠い。俺の声など陽菜には届かないだろう。 それでも言う。「陽菜、行け」 前の選手との差がどうなっているのか、一瞬では分からない。レーンが違うので、見た目の位置だけでは順位も判断しづらい。 俺は息を止めそうになり、途中で自分が呼吸していないことに気づいた。 走っているのは俺ではない。 なのに苦しい。 意味が分からない。 ホームストレートの反対側へ入る頃、陽菜の腕の振りが少し大きくなった。 あれが予定通りなのか、それとも苦しくなっているのか分からない。 分からないことばかりだった。 脚、大丈夫か。 ふくらはぎ。 昨日張っていた場所。 一瞬そこへ考えが向かい、俺はすぐにやめた。 今、それを考えても何もできない。
第86話 今回は、彼女から先に「好きって言って」と言われた 大会当日、競技場の入口近くで陽菜を見つけた時、俺は最初に「おはよう」と言うつもりだった。 昨日、二人でそういう話をしたからというより、それが一番普通だったからだ。大会だからといって特別な言葉を用意しておく必要はない。むしろ、前回みたいに余計なことを考えすぎるより、その時の陽菜を見て話せばいい。 そう思っていたのに、俺が口を開くより先に、陽菜はスポーツバッグを肩へ掛けたままこっちへ来て、少しだけ困った顔で言った。「悠真、今日だけは先に好きって言って」 かなり意外だった。「今?」「今」「前回、レース前は嫌だって言ってたけど」 そこまで言ってから、言い方を間違えた気がした。 陽菜も少しだけ眉を上げる。「それ、今言う?」「比較したかったわけじゃない」「でもした」「ごめん」 陽菜は一度息を吐いてから、肩に掛けていたバッグを持ち直した。「まあ、私も前と逆だなって思ってるからいいけど」「じゃあ、本当に今?」「うん。今は欲しい」 なら、迷う理由はない。「好きだよ、陽菜」 言うと、陽菜の顔が少しだけ緩んだ。「もう一回」「何で」「一回で終わると思わなかった」「注文多いな」「今日だけ」「好きだよ」 今度は少しゆっくり言った。 陽菜は数秒こっちを見たあと、「うん」と頷いた。その返事が昨日より落ち着いていたので、俺のほうも少し安心する。「これでいい?」「かなり」「
第85話 大会前日に、彼女が珍しく「怖い」と言った 大会前日の陽菜は、思っていたより普通だった。 午前中に軽い調整をしたあと、昼過ぎに大学近くの喫茶店で会った時も、特別ぴりついている様子はなかった。髪はいつものように結ばれていて、注文したのもいつものアイスティーだったし、俺が頼んだプリンを見て「一口ちょうだい」と言うところまで普段通りだった。「自分で頼めばよかっただろ」「一個はいらないの。一口がいい」「その理屈、毎回ずるい」「彼氏のプリンは一口だけ食べると一番おいしい」「そんな効果ない」「あるよ。自分のお金で買ってないから」「最悪の理由」 結局一口やると、陽菜は満足そうに笑った。 この顔だけ見ていれば、明日大会だとは思えない。 俺のほうが意識しているくらいだった。脚の張りはどうか、体調はどうか、睡眠は取れているか。聞きたいことはいくつもある。 でも、ここ数日の話を考えると、全部確認するのも違う気がした。「脚」 それでも一つだけ聞く。「大丈夫」「本当に?」「朝、コーチにも見てもらった。昨日より軽いし、痛みもない。今日は流しとスタート少しだけで終わり」「ならよかった」「悠真」「何」「今ので一個終わりね」「何が」「体調確認」 読まれていた。「もう聞くなってこと?」「聞いてもいいけど、五分ごとに大丈夫って言われると、逆に何か悪い気してくる」「そこまでは聞かない」「ならいい」 陽菜はアイスティーを飲んだあと、少しだけ俺の顔を見る。
第84話 好きだから止めたい。でも、止める権利まではない 前日に読んだ相談カードのことが、翌日になっても頭に残っていた。 恋人が試験勉強で疲れ切っている。見ているのがつらい。だから「もうやめればいい」と言いたくなる。 昨日はかなり整理したつもりだった。頑張ることそのものと、寝不足や食事の乱れは分けて考える。心配していることは具体的に伝える。でも、相手が続けるかやめるかまで先回りして決めない。 理屈としては分かった。 問題は、それが自分のことになると急に難しくなることだった。 翌日の午後、俺は大学の陸上競技場の外側にあるベンチへ座っていた。陽菜に呼ばれたわけではない。図書館へ行く途中、たまたま練習が見える場所を通っただけだ。 少し見てから行こう。 そう思った。 競技場では短距離組がスタート練習をしていた。遠くからでも陽菜は分かる。走り方もそうだが、スタート前に一度だけ肩を回す癖がある。 何本か走る。 止まる。 コーチらしい人と話す。 また走る。 見ているだけなら、特に問題はなさそうだった。 ところが一本終わったあと、陽菜が左のふくらはぎを押さえた。 胸が少し動く。 すぐ離した。 歩いている。 引きずってはいない。 ストレッチをして、またスタート地点へ戻る。「……大丈夫か」 誰にも聞こえないくらい小さく言った。 次の一本。 走る。 普通に見える。 でも、一度気づくと気になる。 走り終わるたびに脚を見る。歩き方を見る。本人が少しでもふくらはぎへ触れると、それだけで不安になる。
第83話 恋人が頑張っている姿を見るのが、つらい 大会まで四日となった午後、フェチ研の相談箱に一枚のカードが入っていた。 最初に読んだのは澪先輩だった。いつものようにカードを種類ごとに分けていた手が途中で止まり、少し考えてから神崎先輩へ渡す。「これ、短く返すより話したほうがいいかも」「どれ?」 神崎先輩が受け取り、俺と陽菜にも見えるよう机の中央へ置いた。 相談そのものは長くない。『恋人が資格試験の勉強をしています。本人がやりたいと言って始めたことなので応援したいのですが、最近は寝不足で食事も適当になり、会ってもずっと疲れています。頑張っている姿を見るほど「もうやめればいいのに」と思ってしまいます。でもそれを言ったら、相手の努力を否定することになる気がします。好きな人が頑張っているなら、黙って応援するべきでしょうか。』 読み終わって、最初に頭へ浮かんだのは陽菜だった。 隣を見る。 陽菜もこちらを見ていた。「今、私思い出したでしょ」「うん」「即答」「隠しても意味ない」「まあ私も、自分のことみたいだと思ったけど」 陽菜はカードをもう一度読む。「でもこれ、かなり分かるかも」「止められる側として?」「両方。もし悠真が何かのために毎日寝ないで頑張ってたら、私たぶん最初は応援する。でも顔色悪くなってきたら、普通にやめてって言うと思う」「俺がやりたいって言ってても?」「言う。だって倒れたら嫌だもん」 神崎先輩が椅子へ深く座り直した。「そこなんだよね。相手が頑張ってると、応援することが善で、止めることが悪みたいになりやすい。でも実際はそんなに単純じゃない」「じゃあ、この人は言っていいんですか」
第82話 「頑張って」が欲しい日と、いらない日は自分でも分からない 大会まで一週間を切った火曜日、陽菜から珍しく朝のうちに電話がかかってきた。 普段ならメッセージで済ませる時間だったので、何かあったのかと思いながら出ると、最初に聞こえたのは寝起きでも焦っている声でもなく、少し苛立ったような声だった。『悠真、今ちょっと話せる?』「話せる。どうした」『昨日さ、練習行く前に頑張ってって言ってくれたじゃん』「言った」『あれ、昨日は嬉しかったの』「うん」『でも今日、同じこと言われたらちょっと嫌かもしれない』 一瞬、意味を考えた。「誰かに言われた?」『まだ言われてない。これから練習なんだけど、朝起きた時から何か嫌で』「何が嫌?」『それが分かんないから電話した』 そう言われると、俺にできることはかなり限られる。 理由を当てる。 原因を整理する。 対策を考える。 以前なら、そのどれかをすぐ始めていた気がする。「じゃあ今日は言わない」 とりあえずそう答えると、陽菜が少し黙った。『……それだけ?』「他に何かいる?」『いや、いらないんだけど』「じゃあそれで」『悠真、最近こういう時ちょっと強くなったよね』「何が」『前なら「昨日はよかったのに何で」って聞いてきそうだった』「聞きたい気持ちはある」『あるんだ』「でも、陽菜も分からないなら、俺が聞いたところで今すぐ答え出ないだろ」 電話の向こうで、少